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デリュージョン・ストリート 4



 師走の空というのは、いかに晴れた日であっても、なにとはなく白々とした空虚さに満ちている。そればかりか、光の色あいすら妙に侘しく、寒風が吹き渡るというのに、ふっとこの土地を古い眠りに就かせるような気がする。
 尾張町という名の頃おい、そこの四辻から歩き始め、三十間堀を眺めやりながら三原橋を渡ると、その先に古い武家屋敷の海鼠(なまこ)壁がつづくのだが、時折その壁面に歌舞伎座やら映画館やらレストランなどの影が映るような気がした。そのまままっすぐ、築地川に架かる万年橋から築地御坊へ歩を進めると、山高帽とステッキ、パラソルと襞の多いドレスという扮装の外国人の男女と擦れ違った。冬だのにと思ったとき眼の隅に眩しい光が入ったので、後ろを振り返ると、見渡せるかぎりの建物という建物の壁が白く照り輝いているのだった。それはもちろん、陽光を浴びたビルディングの姿なのだが、動きのとれぬ自動車や着ぶくれした人々でごった返す銀座四丁目は言うに及ばず、(うず)められた運河の上で名前だけになってしまった橋まで、その白い光で隈なく蔽われてしまっていた。
 晴海通りを勝鬨橋へ下っていく道すがら、五千石の旗本屋敷が明治になって築地の梁山泊と呼ばれ、さらに後年、料亭へと生まれ変わる話を思い出した。インドの大伽藍を髣髴させる西本願寺にしても、江戸海辺坊舎、浜町御坊、築地御坊とその名称と姿を変えている。建物の転生など聞くべくもないが、いっそ魂の形態ということに譬うれば、転生というのではなく、何ごとも済んでしまって取り返しがつかぬだけのことだ。取り返しのつかぬことへの哀切だけが魂というものの形なのかもしれない。
 ところで、このあたりを訪れたのは一パイの河豚にありつこうと思ったからだ。目当ての店は込み合うので、白子が品切れにならぬうちにと早くから出て来たのである。古来、河豚を食すことは禁じられ、ようやく昭和十六年に解禁されたというが、「河豚食へば鬼も仏もなかりけり」というわけで、下関からブリキ罐で送られてくるのを明治の頃には汁や鍋にしていたようだ。江戸時代にも雪輸の河豚とあり、いっそうこの季節に似つかわしい。
 波除稲荷の前を抜けて魚河岸に入ると、あまりに森閑として日中のこととは思えない。小鰭の青い肌は朝の感じがするとは生きのよさをいうものだが、この一帯では昼は夜なのだ。白い光の中の眠り、この違和感のためか、なにやら存在があやふやになっているような気がした。汐留川の向こうの景色、つまり御浜御殿、延遼館、浜離宮へと変わりゆくものの景観さえこの危うげな翳りを帯びているように見えなくもない。いつのまにか、「夢の破片は泣く」「世界の涯が自分の夢の中にしかないことを知っていたのだ」と言い残した二人の詩人の顔を思い出していた。そして、孤独になればどこにいても何をしていても同じことだと思った。三日肉食せざれば骨皆離るというのは魚肉のことだが、三日夢を見ざれば魂は離れていってしまうのだろうか。たしかに、死んでしまった方が見事だと思わるるときに死ぬる人もある。
「ハイヨハイヨと鯛が通る、ヨツシヨヨツシヨと鮪が通る、御免御免と蛸が通る。こゝの往来は右も左もない。海の中でゐつけたやうに、鮪でも鯛でものさばつてゐる。たゞ人間ばかりが、細い路を前と後とで押合つてゐる」これは築地に移転する前の、日本橋の方の殷賑ぶりを綴った記事なのである。
 さて、海中より出現したといわれる波除稲荷の御神体と、浦島の夢を啖う竜宮城とは、何か繋がりでもあるのだろうか。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)




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